Happy Life

ちょっとだけめだかの事を

2015/11/30 Mon

しくじりシリーズが終わったので久しぶりにめだかのお話しを。

でもしくじりシリーズで昔の話を書いていたら懐かしい人たちから連絡があったりで
それはそれで良かったのかも知れません。

上流、下流って意味が判る方が何人かいてらっしゃるでしょうか。
勿論、川の流れの上流、下流の事を指しているのですが
今はメダカの話なのでちょっと違うです。

皆さんはどれくらい網を使い分けていますか?
僕は普段世話をする時は基本は4本です。

水槽が4ブロックに分かれて配置してるからです。
普段はこの状態で何ら問題ないのですが世話の手を抜いたり、
新しく外の世界からめだかを導入した時などこの上流下流で問題が出るのです。

勿論、新しく導入した品種は来たらすぐに薬浴です。1週間ぐらい。
でもね、症状が出ないときでもどんな病気を持ってるかわからないので
世話をする水槽の順番っていうのがあるんですよ。
僕の場合は並んでる水槽の左から世話をします。
エサも左から、水替えも左からって決めています。
なので一番左が上流になるわけです。
川の流れではなく世話の流れなわけです。
なので新しく導入する品種は最下流がいいわけです。どんな病気を持ってるかわからないですから
万が一伝染性の病気だと下流に全部うつってしまいますからね。

本当は網も何もかも別が一番良いんですが僕は横着なのでそこまで
気を使わないんですよ。
だからもし落としたくない貴重な品種がいたら最上流に持ってくるわけです。

ちょっとした気遣いですがめだかにもそれぐらいしてやっても良いと思いますよ。
特に業者であればそこに気を使うと死ぬ個体が減って利益率もアップするし
使う薬品の量も減らせるし良い事づくめです。
国産グッピーほど気を使わないでも構わないですが仕入れの時に産地の由来を
聞いておくのも良い手でしょうね。
出来れば池あげしためだかは手を出さない方が無難でしょうね。
ベストなのは室内で作ってるブリーダーさんの個体でしょうね。
池の個体は揚げた後のケアが出来ていないとお腹がへの字に変形して
下唇が飛び出し不格好ですぐにそれと分かります。
平気でそんなのを送ってくる業者はアウトなので代金を払う価値がありません。

それと業者で酸素なしで水を一杯入れて送ってくる所もNGですね。
僕から言わせると死ね!って感じです。

ヨレヨレでなんとか生きて着くのとプリプリで元気よく到着するのとでは
後のケアの差がでかいと思いますよ。

まあ、そんな感じで少しだけ普段の世話にでも順番を気にしてあげてみては
どうでしょうか。少しだけですがスキルアップ出来ると思いますよ。
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しくじり先生を見て 総括

2015/11/29 Sun

1、初心を貫くべし。ブレてはダメだ。快楽は一時、後悔は一生。

2、目の前の高給よりも男気。酒に飲まれるな!身分にあった遊びをしろ!背伸びや爪を伸ばすな!

3、目上の人の意見はよく聞くべし。組織とは何か考えろ。

4、法律は守るもの、やぶるものではない。怪しい儲け話には必ず裏がある。裏切りはされてもするな!

5、他人の悪口は言うな、言うとろくな事がない。本当に悪人って存在するのを忘れるな。

6、本当に良い友達はピンチの時にこそそばにいてくれる。調子の良い時だけ寄ってくる奴には利用されるだけ。

まあ、47年生きて来て判った事は上のような事だけですね。
家族がいないのでなんか愛に欠けた寂しい人生のような気がします。(笑

許してもらえるならアフリカの社長には謝りたいですね。今更って言われそうですが・・・。
お世話になってる社長や競艇選手のお友達達、えび関係の友人には僕から裏切る事はないので
出来れば死ぬまで遊んで下さい。
今後は背伸びせず身の丈にあった遊びでエンジョイいたします。

死ぬまでにアマゾンのいくつかの源流を巡る旅ってのをして締めくくりたいですね。
あと、アフリカの大地溝帯にも行きたいです。

ああ、あとアドバイスですがもうそんなに詐欺もないと思いますが
シャムタイガーの本物なんてもういてませんからね。
生き残っていても本場タイでの方が価格が高いので日本で商売になりません。
記憶にある限り本物のシャムタイガーが輸入されたのは17歳の時が最後なので
それから30年、果たして何匹が生き残っているのか想像がつきますよね。
100%カンボジア、ベトナム、ミャンマー産でしょうね。
それとエンドリもそうです。
最後の入荷が14歳の時ですから33年前です。
旧タイプでもし出回ってもかなりの高齢ですから顔つきや独特のオーラが
あります。とてもじゃありませんが今出回ってる中では本物は1匹も見た事がありません。
33~35年前のエンドリが産卵に使えると思いますか?
普通は思わないですよね。僕もそう思います。なので旧タイプのエンドリの繁殖個体って
商品で売っていても100%詐欺です。
高額な商品を買うときは飛びつかないで出所を良く調べましょう。
絵画と同じでそれぐらいのクラスの生き物が本物でしたら以前の飼育者の方の名前も
それなりに有名な方なはずですからね。

しくじり先生を見て ⅩⅧ

2015/11/27 Fri

この頃、肥満が進み(今でも肥満ですが)大台突破。
少しずつ体調も悪化。
色々、仕事上の事で嫌な事が重なり遂に入院。

今、思うと鬱が再発してたんでしょうね。

めだか業界が嫌で嫌でたまりませんでした。

嘘つきと騙し裏切りの三重苦でもうあかんと。

なのでビーシュリンプに癒しを求めました。
最初は人との付き合い方、距離感なんかが判らず苦労しましたが
今もお付き合いさせていただいている方達と遊ぶようになって心も安らいで
いきました。

めだかもきっぱりやめてえび一本というか少しのんびりしようかと。

めだかを手伝っていてくれた従業員さん達も独り立ちしてショップを構え
僕も自宅に戻ってこじんまりとした感じで再出発でした。

当時、以前にも出てきた釣り仲間の恩人の社長から再度会社の仕事を手伝ってくれと
オファーをいただき、お仕事をさせていただく事に。
時間の融通も効かせていただき本当に感謝しています。
多分、この仕事をさせてもらえてなかったら又、鬱が再発して野垂れ死にしてたんじゃないでしょうか。
おかげ様で普通の一般人の生活が出来ていますからね。
それに気分転換にって釣りにしょっちゅう誘っていただきエンジョイさせて
いただき遠くはトカラ列島や対馬まで大物釣りに遠征に行ったりと
人が羨むような遊びをさせていただきました。
特に土佐沖のマグロ釣りは強烈でしたね。
自分の身長ぐらいのが揚がってましたからね。
それ以上にすごかったのはアオザメでした。体調4mぐらいはあったんじゃないでしょうか。
舟べりまで上がって来てこちらをジロリと睨むんですよ。
そこで体をくねらせ一発でラインをぶち切って去っていく姿が今でも目に焼き付いています。
鳴門海峡で大名釣りもやらせていただきました。
真鯛をピンポイントで大量のえさを撒いて釣るんですよ。100kgぐらい。(笑
完全に漁でしたね。

そんな感じでほんわかエビを作りながら暮らしていたのですが平和は永くは続きません。
遂にFBIが動きだしたのです。

とは言っても僕が連行されたわけではないのですが。

前出の後輩ですが日本から持っていく生き物がどんどんエスカレートして
いわゆるご禁制の品を持ち出していたんですよ。
一例をあげますとホシガメ、日本で2~3千円で購入可能でした。
これがUSAにいくと500$。現金ではもらわずに亀とトレードするわけです。
ハコガメ80$を6匹もらうと日本でそれが15~20万に。
他にもスッポンモドキが日本で1500円がUSAで800$ぐらい。って感じで。
勿論、ご法度な商取引です。
裏でやらせていたショップのオーナーや輸入会社が存在してました。
こいつ等が諸悪の根源ですけどね。

後輩も自分で運ばずにバックパッカーをやとって運ばせていました。
が、ハワイに入国した時にあまりにもハワイで一人で遊びに来るには風体がうさん臭くて
おかしいので別室で荷物チェックされたんですよ。
そしたら出てくる出てくるご禁制の生き物が。
特にハワイは外来生物の持ち込みがうるさいですからね。

そんな感じで運び屋さんが逮捕されたわけです。
この時点で真っ当にしてたらFBIも出てこなかったのですが
現地ではおとり捜査が始まっていたわけです。
逮捕された人間は黙秘って話でしたが実際はベラベラ全てしゃべっていて
USA側の受取の人間も逮捕されていました。
今、思うと黒幕が後輩だと判った時点で司法取引をしてたようでした。
そこで罠をかけられアメリカにおびき寄せられたわけです。
半年ぐらいはさすがに怖くて行けなかったみたいですが
あまりにも取引相手から熱心なオファーがあり、しかも取り調べも受けていないって話だったので
信用して相手のオーダー通りに大量のカメを用意してハワイではなくLAと飛んだのでした。
僕のしくじりはその時にお金の融通を頼まれ10日間ということで費用を工面してあげたのでした。
勿論、何をするかは判っていました。今更とぼけてもねえ~。
そうじゃなかったら事細かくこんな内情は判りませんからね。
でも裏で守口のショップが手ぐすね引いていたとはこの時は知りませんでした。

すると2~3日したら後輩の奥さんから電話があったんですよ。
逮捕されたと・・・。

そこからが大変ですわ。
LAでの出来事なのでどういった事情なのかさっぱり伝わってこない。
結局、裁判にかけられ懲役2年ぐらいだったかな。
捕まってから3年ぐらいして帰国してきました。
その間、僕もアメリカに行くのが怖くて行けませんでした。(笑

帰国後も借金のかたにかショップで働かされ精神を病んでいくのでした。
俺なら静岡の輸入業者のように海外で逮捕されて刑務所に入っても英会話をマスターして
出てくるぐらい前向きに考えるのですが彼はそうではなかったようでした。

ああ、本当はもっと具体的に書きたかったのですがこれぐらい緩く書かないといけませんもんね。

まあ、しくじったのはこれくらいまでかな。
リクエストがあればmixiの方で限定で書きますが・・・。

明日は〆のお話を。

後輩の名誉の為にちょっとだけ良い話を。
LAで捕まる前に以前勤めていたアマゾンが閉店したわけですよ。
最初のオーナーから当時の店長が引き継ぎ経営してたのですが
力尽き倒産。僕からすると後輩のまた後輩。
後輩は面倒見の良い奴だったので色々相談に乗ってたらしいです。
閉店後も自分の輸入の仕事を手伝わせて幾らかの給料を渡してやっていたみたいでした。
それでも追い付かないぐらいの借金があったのは事実でここからは推測ですが
一発逆転を狙って後輩と一緒に二人でLAに行ったのではないかと。
まあ、どちらにしても非合法ですけどね。
一番の諸悪の根源は裏で手ぐすね引いて捕まらないポジションで
ぼろ儲けしてたショップのオーナーでしょうな。奴も捕まったら良かったのにね。
まあ、その前に罰があたってるからまあいいっか。

しくじり先生を見て ⅩⅦ

2015/11/26 Thu

この頃でしょうか。
知り合いの紹介でハワイのオアフから胎生めだかのブリーダーだというふれこみで
日系人がやってきました。
リストを見してもらうと確かに日本未入荷の個体が沢山のってましたがほとんどが
在庫なしでした。
この人わざわざ何をしにきたんだろう?って思っていたらハンバーガーの包み紙を取り出し
差し出すんですよ。勿論中身はバーガーじゃありません。(笑

角の生えた生き物でした。舌がネチョネチョの。
その数50匹。それを買ってくれと。
ええんかお前!と思っていましたが国内に入ってしまえば合法だと言い張ります。
確かにそうなんだけど道義的にどおよ?
通訳で来てた女性は一部上場の企業の社員さんでした。
中身の事はおそらく判っていない。
チャゲ&アスカのアスカの愛人の勤めていた会社です。
まあ、仕方ないので買ったのですがうちはめだか屋だし今更、爬虫類もどうしたものか?と。
奴はオアフの北の山に行くといっぱいいてるんだと。
日本人がカブト虫を採集するんとおんなじやと豪語してました。

知り合いの爬虫類マニアに連絡すると欲しい!の一言。
そうしたらそのマニアさんの紹介であちこちのショップから引き合いが。
1日で50匹完売でした。
そうしたら翌月も奴はやってきました。
あまり詳しくはなかったのですがキサントロプスという種類で珍しかったそうです。
そういえばオタマジャクシも採れるんだと言って持って来た事もありましたね。
何カエルのオタマかは怖くて書けませんが。

半年ぐらいそんなのが続きましたが急に連絡が途絶えました。
○ソ▽の女性に連絡してもつながらないと言われどうしたものかと。
それが今回の最大のしくじりの選択につながりました。
まさか後々にFBIが出動するような大騒ぎになるとはこの時は微塵も思っていませんでした。

時期を同じくして以前勤めていたアマゾンの姉妹店が閉店することに。
店長を務めていたのは後輩だったので先々の進路の相談を受けていました。
知り合いの税理士さんを紹介して有限会社を立ち上げフィリピンに温室を作って
海水魚の輸出をすることに。
しかし、これも現地の会社を任せていた日本人にお金を持ち逃げされアウトに。
どうしたものかと言うので一緒にシカゴに行きました。
旅費も仕入れのお金も出してあげハンドキャリーでブリーダーズショウの商品を持って帰ったのでした。
まあ、どんな具合かというと上手くやると80$のカメが日本で10万で売れるみたいな。
ミドリガメでも少し色目と柄の違う変異個体がいててそれが15$ぐらいですが日本では1万5千とか。
目利きさえ出来れば10倍くらいの利ザヤが当時はあったわけです。

まあ、後輩も家族があるし生活がかかっているので必死です。
多少のやんちゃな事には目をつむりました。(笑

そんな感じで帰国してさぁ~っと商品をさばき初期投資のお金を返してもらい
また、翌月買い付けに行きました。
その時は少し作戦を練ってさらに利益率を上げるために一工夫したのでした。
日本の固有のヤモリやカメを持って行って交換してもらうのです。
イシガメはイシガメと沖縄のヤモリはノブテールゲッコーとという具合に
すると現金で買うよりはるかに安く購入できるわけですよ。
ええ感じで商売のやり方も覚えたので後輩は独り立ちする事に。
僕は元のめだか屋さんに戻って平和に過ごしていました。

FBIが出動するのはもう少し先の話です。

しくじり先生を見て ⅩⅥ

2015/11/25 Wed

そういえば当時のピーシーズの雑誌でアクアウエーヴってのがあって
メダカの記事を2~3ページ書いたような記憶がありますね。
それを読んでマネているのかな?

まあ、そんな感じで相変わらずめだかを生産し続ける毎日だったのですが
しょうもない卸業者が一杯いましたね。
前回書いたような金魚の生産業者や錦鯉の業者まで参入してきました。
言葉巧みに近づいてきてめだかをなんせ安く買おうとするんですよ。
特に東北の方のなんか知らんけど漁師さんみたいな名前のところは酷かったですね。
池でエサ用のヒメダカを作る要領で作るので大量に作れるのですが出てくるのがいつも夏頃。
一度に何万匹も出荷してくるのでセリで値段がつかず最悪な状態に。
しかも池あげをしてケアしてないので死ぬ死ぬ。
でもホームセンターなんかは単価してみてないのでそれを買うんですよね。
でも入荷して2~3日で全滅。
今までいてたやつもつられて病気が出てアウト!ってパターンですね。
それが現在でも続いているから驚きです。
奴らは全く品質なんて気にしてません。
それでは安いから業者は買うんですよね。(笑
お客見てる水槽にヨレヨレの死んでいくめだかを泳がせていてどんな広告効果があるねん!
いい加減気づけば良いのに未だに単価の事ばかり。
大阪で一流とされているショップの人間でさえ口を開けば単価の事ばかり。
そんなヨレヨレと一緒にされても困るしそれより俺、売り込みに行った事ないし。(笑

でもね当時は悪貨が良貨を駆逐ってやつですか、徐々に業績が落ちてくるわけですよ。
こっちは室内で加温して年中生産ですからね、単価は下げたくないわけですよね。
でも業者は粗悪品の安い単価を基準に値切ってくるわけですよ。
3~5月ぐらいは粗悪品はまだ出てこないので注文がうちに集中してくるわけなんですが
特にGWなんかはどこも商品の確保にやっきになって注文してくるので
夏場も変わらず注文してくれるなら発送してあげると口約束するのですが
みんな裏切りますね。きれいに全員が。(笑
だって単価で3~5倍違いますからね。仕方ない。
無い時だけ泣きついてくるわけですよ。
そんな業界にすごく嫌気がさし仕事をする気が失せてきたわけですね。
ここでまたターニングポイントを迎えるわけですね。

しくじり先生を見て ⅩⅥ

2015/11/24 Tue

この頃のしくじりといえば金魚の生産業者で卸業者もかねている連中に大卸しで
メダカをわけた事ですね。
最初は販売するだけだからと言って業販よりも安い価格で売ってくれと言ってくるわけですよ。
まあ、ロットもでかいし安定した収入になると思いOKしたのがしくじりでした。

相手はたたきの池を何十何百と持ってる連中だから増やすのに大した時間はかかりませんでした。

こちらから送ったメダカは1匹も売らずに全てたたきの池へ。
半年もするとライバルの生産業者の出来上がりです。

小売値で売ってたら何も文句ないですよ。でもあんたショップに卸で売るから大卸しでお願いって
話じゃなかったっけ?
それを生産に回すのは仁義に反しているでしょう。
この業界って悲しい事にモラルってそんな程度なんですよ。
それからも僕がそこそこめだかで儲かってると聞くとすり寄ってくる気持ち悪い連中が続出でした。
正直、そんな連中で僕が1年前に首を吊ろうかと悩んでいた時に助けてくれて人は勿論皆無です。
なので全く相手にする気は起らなかったのです。
そしたらまた悪評ですわ。
特に爬虫類系の大阪の業者はロクなのがいてませんよ。
史上最低だったのは守口のサ○リ▽。
こいつだけは今でも車にオオスズメバチの刑にしてやろうかと思っています。

いつかこいつらの悪事(密輸、密売)を全てばらしてやろうかと企んでいます。

この頃って色々しくじって来てやっと自分の実力と本当の仲間というのが
判ってきた頃でした。
なのでその時に受けた恩は一生生きている限りお返しし続けるし
この時に受けた仇は死ぬまで覚えていて恨んで隙があれば仕返ししたいと
思っています。
なので心あたりのある芋吉あたりは暗い場所を歩く時は外人に注意しておいた方が良いで。

しくじり先生を見て ⅩⅤ

2015/11/24 Tue

第十四回はショッキングすぎてダメでしたね。(笑
伏せておきます。

まあ、そんな感じで僕のしくじりはドンドン加速していきます。

前の仲卸の会社を辞めしばらくゆっくりしてました。
ちょうど1999年だったのかな。

その頃に今も御世話になっている恩人の方から会社を手伝って欲しいと直々に
頼まれたのですが当時の僕はアホですね。
断ってしまったんですよ。
その時にちゃんと働いていればその後の超しくじり人生なんてなかったのに。
この頃の人生の岐路の選択は全て裏目裏目でした。
アフリカ、アマゾンと良い形で退社しなかったので因果応報ってやつでしょうか。
そのくせにまだ自分はイケるとかヤレるとか勘違いしてたわけです。

そんな感じで銀行から多額のお金をひっぱりショップを開業するわけですが
これが見通しが甘々で最悪でしたね。

わずか半年ぐらいで運転資金にも行き詰り閉店を考えるようになっていました。
今、考えると周りの心無い業者にだれとは言いませんが3~4人にいいようにやられました。
お金の有るうちはちやほやしておいて資金が無くなるとポイです。
ポイだけならまだしも凄い悪評を流すわけですよ。

でもね、そんな時にでも救いの手を差し伸べてくれる本当の友人っていうか恩人みたいな
人も現れました。その人達のおかげで今生きていられると思っているぐらい感謝しています。
当時の僕は今思い返してみればかなり進んだ鬱だったような気がします。
本当にネットで自殺の仕方とか死後の世界とか生命保険金の上手い取り方とか
死ぬことばかり研究してました。
それぐらい自分の実力のなさに嫌気がさしていて落ち込んでいました。

熱帯魚を普通に仕入れて売っていても大手にかなわないのは明白な事実だったので
何か世間にはない特化したショップにしないと生き残っていけないと悟り、精神的にも
復活を遂げるのでした。
まずは店の固定費を数十万ですが確実に稼ぐために病院や歯医者さんを訪ね
水槽を置かせてもらいメンテナンスをさせていただくようにしました。
沢山の友人に紹介していただき本当に助かりました。
この時、前向きに店の現状を話し打開するための策を説明して理解していただき
協力を得る事ができました。
ちょっと前まで死ぬ気でしたからもうそれ以上下に落ちる事はないと・・・。
店の中の高額な生体の購入をしてくれた方もいて本当に助かりました。
みんなの協力があっての復活でした。
そんな頃、白めだかと出会ったのでした。

当時はまだ園芸屋さんでの販売でしたね。
それが少しずつですがアクア業界にも入ってきたって時代でした。
僕が手を出した頃はめだか業界の中では最古参の広島の福山の「めだか家本舗」さんと
さつきセンター今のめだかの館ですかね。この二人で先輩後輩の仲でした。
僕は福山のめだか家本舗さんの方に弟子入りしました。
くれぐれも後発の広島の「めだか本舗」とは別ですよ。
同じ県内でよくもそんな紛らわしい店名を付けるものだと感心していました。
それ以外では金沢のディスカス屋さんだった筆さんがやっていましたね。
ネット販売ではなく手書きのプライスリストをFAXしてくるやり方で最後のアナログ販売屋さん
だったのかも知れませんね。

まあ、そんな感じで白メダカが当時1匹2000円!でした。(笑
アルビノ、光めだか、ダルマ、ブチぐらいまでだったでしょうか。
幹之が出てくるのはまだ先の事です。

と、いうわけでメダカだとピンと来たので急きょめだか屋さんになりました。
当時は月産5万匹ぐらい作ってたでしょうか。
今の卵の管理方法を編み出したのも2001年頃です。
なんせガンガンに作ってバンバン発送してました。

だって1匹のメスが20個毎日卵を産むんだから100匹いてたら毎日2000個、月に6万個。
みたいな単純な計算を根拠に毎日頑張って世話をしてました。(笑

ピークの時には従業員が4人いてて採卵、水替え、発送と大忙しでした。

やはり大量生産の肝は卵の管理にありました。
当初は判らない事だらけで手さぐりだったので今よりも効率が悪かったですね。

今では笑い話ですが採卵した卵を高濃度の塩水に浸けて表面のたんぱく質を凝固させてから
指で解してバラバラにしていってました。
さらにそれをカビないようにグリーンFゴールドに浸けて消毒。
とても不経済でしたが当時はまだ高価だったので採算があったのでした。
それからしばらくしてからメチレンで染色して無精卵と有精卵とを選別する技を編み出しました。

それが今では間違った意味で世間に伝わりメチレンで消毒みたいなニュアンスで
伝わってしまっています。
メチレンで消毒しようと思うとかなり高濃度になってしまうので全てが染まり過ぎてしまい
選別が出来なくなってしまうのですよ。
あくまでも無精卵は卵の表面の膜が硬化してないので良く染まる。受精卵は他の精子の侵入を
させないために受精膜というか表面が硬化して精子の侵入を阻止するので染色液が入らないので
染まらないという差を利用して選別するという技が本来の意味合いなわけであって、
本質を理解しないで未だにメチレンで消毒で発送とか書かれているのを見るとあまりにも
レベルが低いので可哀そうになってきて悲しいです。マネするならちゃんと本質を理解して
コピーしてもらいたいですね。劣化したコピーは必要ありません。
それが進化したのが今のやり方でマラカイトで消毒、染色を同時に行っているわけです。
メチレンを使わないわけはそういう理由からだったのです。
なので皆さんも購入するブリーダーさんがもし、メチレンを使っていたら秘かにレベルが低い奴だと
判断してやってください。レベルが低いと言い切ると語弊があるかもしれないので
進歩のない奴だと思ってもらってOKです。

しくじり先生を見て ⅩⅢ

2015/11/21 Sat

この辺りから経営者側と意思の疎通が上手くいかなくなって来て
会社の中ではイエスマンが可愛がられるようになってきました。

会社の方針というか上層部の意見に尽くNO!というもんだから本当に窓際に
追いやられそうでした。
だって生き物素人の人間の浅知恵が通用するほど甘くはないですよ。
色んな企画が僕をはずして行われました。
最悪だったのはテトラのクリルEを300万円分のまとめ買い事件でした。
並行輸入の一件で関係が冷めまくっていたのに今更何をメーカーにゴマする必要があったのか
僕には全く理解出来てませんでした。
それだけまとめて買っても1個当たりの単価はたしか30円前後の値引き程度で
しかも売価からすると利益は微々たるものでした。
300万円分の在庫を長期間寝かしておく方が絶対にもったいないし
海外に出て新しい生体のルート開拓に使った方が絶対に利益率も良いし
回収も早いのでそう主張するも全く聞いてもらえませんでした。
この時もイエスマンが裏で暗躍してたみたいです。
この頃、経営者側が取った行動はさらに以前クビにした奴の職場復帰でした。
しかもタイのバンコックの駐在員役で。
ダメでしょう~。
当時、タイからの品物の仕入れなんて全体の1割もなかったですよ。
全く意味がありませんでした。
案の定、奴は会社の金で私腹をこらすばかり。
なぜ?かというと経営者サイドの人間がそろってバンコック遊びに夢中で
下半身を押えられていたからでした。
そんな事してる場合じゃなかったんですけどね。
それと並行して僕にも事件が・・・。
今でいう半グレ集団に絡まれ瀕死の状態に・・・。
僕が悪いというか調子に乗っていたというか・・・。
本当に大変でした。
まあ、色んな事があってもう無理ってなってそこから1年我慢しましたが
退社。
この選択も今、考えるとしくじりの選択でしたね。
もう少し、きれいに根回しすれば良かったのに目の前の嫌なことを
避けたいばかりで早まってしまいました。
自分の能力の限界をこんなものだとちゃんと理解出来ていればこんな事にも
なってなかったかも知れませんが当時は時代の波に上手く乗ってやっていけてましたので
ダメなのは全部経営者サイドのせいにしてた自分がいてましたね。
経営者を納得させれる説明が出来ていないのは自分の実力が足りなかったからだと
認識できるようになったのはここからまだ10年近くかかりましたよ。(笑

しくじり先生を見て Ⅻ

2015/11/20 Fri

我がアマゾンの転機は二号店のザ・熱を八尾に出した時でした。
二号店自体の出店は仕入れのロットも大きくなり値引きのメリットもあったので
賛成だったのですがなんせ中身がダメダメでした。
今更、過去を振り返って批判するのは卑怯とも思われますが経営方針については
猛反対しました。
26歳ぐらいの若造があまりにも経営者にたてついたのでクビになる寸前でしたね。(笑
それぐらい業界ではやってはいけない禁じ手に手を出してしまったのですよ。
僕からするとアマゾンでの数年間で築き上げた問屋やメーカーに対する信頼関係を
根底から覆される思いでした。
どういった事だったかというと当時のアメリカの熱帯魚雑誌の広告のページに
今の日本でいうチャームのような大手物流通販の会社の広告が出てたのですよ。
それも小売価格入りで。
その小売価格が大手メーカーの商品の日本の仕入れ値の半分以下だったりするわけなんですね。
日本ではまだ未発売の商品があったりと魅力は確かにあったのですが
単純に一個人が買うのは自由だと思うのですが並行輸入して販売するとなると
日本の代理店との戦争というか邪魔が入るのは目に見えているわけですよ。
だって製造元の本国のメーカーから圧力をかけられたら一発でアウトじゃないですか。
なのでバックアップというか仕入れルートをいくつも開拓しておいて出荷元を隠すように
しないといけないのに舞い上がってしまいアメリカの単なる一業者と契約して輸入して
しまったわけですよ。
まるで太平洋戦争の開戦みたいな心境でしたね、僕には。
長期戦では負けるのは判っていたので短期決戦で国内代理店と交渉して
以前より有利な条件で納品してもらうようにすれば勝ちだと。
在庫は代理店に買い取ってもらえば損はないしと水面下で話を進めていたのですが
それにアマゾンの経営者サイドが猛反発。
第二段、三段の輸入を画策。争いは泥沼化。
メーカーも国内で添付セールを画策して並行商品つぶしに走るし
当然ですがアメリカの会社に圧力をかけ商品の供給をストップ。
輸入も難しい状況に追い込まれました。
結局のところ、半年もすると完全にアメリカからの商品供給はストップして
並行輸入政策は完全にアウト!に。
でもねそこでまた口出しすると怒られるんですよ。
その時にね、まだマーフィードって国内で浄水器を売り出してなかったんですよ。
なのであのシステムは売れると踏んで色々調べていたんですが
代理店契約するほどの大きなロットでの商品を抱える資本がないと・・・。
とほほな結果になってしまいアメリカ撤退となってしまいました。
ああ、せめてアメリカ担当を僕が引き受けてさえいればこんな結果にはならなかったような
自信はあったのですが・・・。
まあ、そんな感じでどんどんと間違った選択をしていき迷走状態になっていくわけです。

しくじり先生を見て Ⅺ

2015/11/17 Tue

阪神大震災はショックでしたね。
自宅も少し被害ありましたがお店が心配で夜が明けきらぬ内に
車でぶっとばして点検に行きました。
途中、道路が陥没してて突っ込みフロントがグシャっと逝きました。
幸運な事にお店は事務所の机が1台だけ倒れていただけで特に大きな被害が
無かったのですが夜が明けてTVで神戸の惨劇を目の当たりにして絶句でしたね。
大きな取引先が阪神電車石屋車庫下にあったので
震災の翌々日から復旧作業のお手伝いに行っていました。
まだ倒壊してた家がそのままで歩道に被害に遭われたご遺体が並んでいるような状況でした。
幸いにも火は燃え移らなかったのとそこの従業員さん達は無事だったのが不幸中の幸いでした。

そんな感じで業界的にはここから右肩下がりの流れに。
でも本当はオオクワガタブーム、クリスタルレッドシュリンプのブームと
大きな流れが来てたのでこれに乗り切れなかった業者が沈没の憂き目に・・・。
そんな中で僕はベトナムでホワイトタイプのダトニオを探し当て一発当てましたね。
それぐらいか・・・。
この震災後ぐらいにまた大しくじりな人生の選択が待っていました。

世の中の流れが少し澱んだ嫌な雰囲気が漂い出した頃でした。
でも本質的なところは違っていたと当時から思っていました。
震災をきっかけに日本総国民全てが携帯電話を持つ時代に突入したのでした。
機種本体価格ゼロ円で売り出したのもこの頃だったのです。
だって今まで家庭の中での固定費としての通信費なんて4000~5000円だったはずですよ。
インターネットなんてまだまだ普及してなかった時代ですからね。
それがいきなり一家に2~3台の携帯が。料金は一家で2~3万。バブルが弾けてますから
給料も上がんない。でも便利でやめれない。
そうなると何か節約しないといけません。
そんな時代の大きなうねりが来ていたわけですよ。

ここで攻めにでるか守りに入るかの選択で大きく業績が変わったわけです。
攻めに行ったのが当時ではペットバルーン。社長のフットワークが軽かったですね。
南米にワイルドディスカスを直接買い付けに行き新ジャンルを切り開き
種まきも収穫もここから10年収益の柱になっていたのではないでしょうか。
やっぱり現地での根っこの部分の情報を握っての商売は強かったですね。
海水魚でもサンゴの輸入や近海ものの販売など手を広げて業績を伸ばしてましたね。
反対に守りに入ったのがグレートアマゾン、アフリカだったのではないでしょうか。
なんとなく徐々にジリ貧に右肩下がりに・・・・。元気がなかったです。

この頃って本当にまだネットで情報が氾濫してなかった時代だったので本当はやりやすかった
はずなんですよ。
金脈を探り当てるまで努力は必要でしたが。
アメリカに行けば爬虫類のブリーダーエキスポがありましたし、日本ではオオクワガタブーム、
クリスタルレッドビーのブームと余力のあるうちにお金と人材をつぎ込めば良かったのですが
当時ではそんな事を思いつかなかったのでしょうね。

僕はというと暗黒の時代に突入してました。

しくじり先生を見て Ⅹ

2015/11/16 Mon

グレートアマゾン編ですがその前にアフリカの社長に謝っておかないと
いけませんね。
家族のように接してもらっていたのに不義理なことをしてしまい本当に申し訳ありませんでした。
当時は若造だったので何にも判っていなかったです。
今となって経営者の孤高の苦しみというもんが理解できるようになりました。
やり直せるものではありませんが当時の判断をお許しください。

そんな感じで色々あって転職する事に。
好きにやらせてもらえるということで本当に好きにやらせてもらいました。
24歳の若造が好き勝手やってしまったので大変な事になってましたが
そんな状態な所に寄ってくる人間ってロクなのがいませんでしたね。
N,A、N、H、K、I、U、Y、N、本当に曲者ばかりでした。

当時の人脈でまだ付き合いがあるといえば一人だけかな。
他はみんなアウト!ですね。(笑

そんな感じで大変業界がバブっていた時代だったのでみなウハウハだったのは
ないでしょうか。

グレートアマゾンでは今までと同じ事だけをやっていても消耗戦になるので
何か収益の柱になるものが必用ということで水草に力を入れる事にしました。
まだADAがブランドとして立ち上がっていませんでしたので高価だったのですが
デュプラやデナリーのCO2システムに水銀灯みたいな感じでやってました。
1セットが20~30万してたのではないでしょうか。
CO2システムだけでですよ。
半年ぐらいしてからでしょうか、アマノがビニール袋の吊り下げという今では考えらないダサい
パッケージでCO2のボンベとレギュレターを売り出しました。
パワーサンドとかも販売してましたね。
販売当初はパレングラスもなかったのでデュプラの物を流用してました。
それでも今までのヨーロッパの物に比べるとかなりのお手ごろ感があり飛ぶように
売れました。
ネコも杓子もリシアとグロッソの時代でした。(笑
そんな勢いでADAがブランド化に乗り出し銀色の今のパッケージで
販売しだしました。
まあ、そりゃ売れましたね。これでもか!っていうぐらい。
雑誌も空前の水草レイアウトブームで凄かったです。
ここまでは時代の読みもばっちりでした。

おそらくですが当時は日本一ADA用品を売ってた気がします。

当時の下馬評ではアフリカの看板で商売してたのに上手くいくはずがないというのが
大方の業界の判断でした。
なのでそんな悪評に負けないようにがむしゃらに働きましたね。
オープンから丸1年以上一日も休みなしで朝から晩遅くまで働きました。
輸入の仕事でも例えば当時カージナルテトラが夏場市場から姿を消すので
6月ぐらいまでに7月、8月分のストックとして3万匹ぐらいをバックヤードで飼育していました。
ブラックアロワナなんかの稚魚でも数千匹単位でストックして欠品に備えていましたので
よその店で欠品中でもうちでは豊富な在庫量があってそれなりに集客してましたよ。
当時では珍しく健康な状態のアルタムエンゼルも数千匹ストックして全国に発送していました。
薬の使い方も当時かなり勉強して今でもそれは役立っていますね。
ブラックアロワナのプラチナタイプをいち早く見出し信じられないような高値で
さばいてみせたのも当時では初でした。
そんな感じでこんな好景気が3~4年続くのでした。
グレートアマゾンの時にもフロリダ、LA、ドイツ、ロンドン、香港、台湾、バンコックと
いろんな所に行かせていただきました。
ディスカスだ!って言う時にはドイツのグーベル氏の自宅まで行きましたよ。
でも馬鹿だから18金のデイトナを買ったり、アルファロメオ1750ベローチェとか164とか乗り回したり
新地で飲んでみたり背伸びして無理をしてたので破滅へのカウントダウンのスイッチを知らずに
押してしまっていたようです。
アフリカでもアマゾンでも僕にこれだけ任せてやらせてもらえたのですから
変な勘違いせずに懸命に働いて恩返しすれば良かったのに本当にダメンズですね。
今でも業界で自分はイケていると勘違いしている若いコ達がいますがおじさんから見ると
道を踏み外さないかハラハラどきどきしています。
当時の僕も含めそんな存在程度だと吹けば飛ぶようなものですから。
控えめにして先輩やオーナーをたてて敬う生き方をした方が賢いですよ。

阪神大震災を境に業界の方向も少し変化して来てそれに対応できないお店が
この頃から少しずつ閉店していきました。
大きな時代のうねりが来ていたようです。
グレートアマゾンでも少し波風が高くなってきました。

しくじり先生を見て ⅸ

2015/11/13 Fri

アロワナの解禁とともになにやら業界はキナ臭くなってきます。
わがアフリカも同じで色々、問題が起きました。

僕は大阪、埼玉、海外を行ったり来たりだったのですが給料体制は
個人売上のインセンティブのみ。
僕は大阪に1~2週だったのでほぼインセンティブを達成出来ず。
しかも大阪のみんなは下取りアロワナを持って帰ったりやりたい放題。
僕は留守が多かったので当時は何も飼育してませんでした。
後々これが大きな問題になっていきます。

それでも世の中はバブル真っ最中で好景気。
いくらでも売れましたね。
色んな事が悪い意味でかみ合って最悪の事態に。
そうあまり詳しい原因は書けませんませんがアフリカを退社。
決して円満ではありませんでした。
自分の活躍の場を新しい環境に求めました。
それがグレートアマゾンだったのですが人生最大のしくじりだったのかも知れません。

もし人生をやり直せるのならその選択はなかったのかな。

でも一度にいろんな事が短期間にあり過ぎでした。

次回から孤高のアマゾン編です。
ここから常にしくじり選択で人生急降下です。(笑

しくじり先生を見て Ⅷ

2015/11/12 Thu

アロワナの輸入が解禁の一発目。
社長は自ら現地に買い付けに。
30匹ぐらいの大人買いしてたんじゃないでしょうか。
その時事件が起こりました。

色んな利権が絡んで輸入許可を取ったのが素人のお金持ちだったのですよ。
それがインドネシアのこれまた経験の浅いシッパーと組んだものだから悲惨な事に・・・。
現地でセレクトしてパッキングしていざ帰国。
そこからおかしかったのです。
なぜ機内持ち込み?
一袋に20~30cmの個体を5匹ずつって変でしょう?
当時の購入価格はたしか30万ほど。だったら丁寧に1匹ずつ梱包しなさいよ。
案の定、機内で酸欠を起こしアップアップ。袋を開けてチャプチャプするがそんな事で
追いつきません。
ほとんどの個体がアウトでした。
少しだけ保証してくれたみたいでしたが素人はダメですね。
まあ、こんな感じでアロワナ解禁一発目はこんな感じの幕開けだったのでした。

そうしたら当然ですが店頭でサイテスの登録書さえあればアロワナを販売できるわけですから
密輸屋さんがまた暗躍するわけですよ。
N久保とか西○○とか、松▽とか・・・。
カード付きなら店頭価格でカードナシなら5万引きみたいな売り方でしたね。当時は。

するとアロワナ専門店が出来始め現地にセレクトに行って密輸してくるって感じで。
インドネシア側もどの養殖業者も輸出出来るわけでなく当時は1~2社だけでしたね。
そこに手数料を払うか密輸するかみたいな・・・。

しくじり先生を見てⅦ

2015/11/11 Wed

アマゾンからの帰国の時でした。
一緒に行った中島君は大の爬虫類マニアでした。
現地で捕まえた子ワニをどうしても連れて帰りたくて
なんと背中にガムテープで巻いて持って帰りました。
もう時効なのでバラしちゃって大丈夫ですよね。
帰国後もなんかの番組で音声を変えられていましたが希少動物の密輸について
語っていた事もありましたね。

そんな感じで帰国後は目標もなくだらけていましたね。
このまま探検家の道を目指していれば今頃いっぱしの文化人になっていたかも
知れないのに世間一般のチャラ男に成り下がってしまいました。
時代はバブルのはしりの頃で世の中みんなが浮かれていましたね。
当時はカーニバルプラザという巨大なレストランでバイトしていまして
学生のアルバイトだけで400~500人というちょっとしたコミュニティーに
なっていました。
その中でもフットワークが軽くクルマもあったので友人と3人組みでいつも合コンばかり
していました。釣り堀で釣りをするようなもので入れ食いでしたね。
毎日、11時過ぎまでバイトしてそれからバイトメンバーで駅前のフォルクスやたよしに入り浸って
朝まで酒を飲む毎日でしたね。
そんな楽しい夢のような期間が2年続きました。
彼女もでき本当に充実した青春でしたよ。
あの頃は何もかも上手く行くんだと勝手に思っていましたからね。

やがて就職の時期が来て僕はそこそこ大手の臨床検査会社に入社しました。
本当に勤まるのか心配でしたが社内ではアマゾンと呼ばれ期待されていたようでした。
でもね、ぬるい社風の会社で中身が無かったんですよ。
当時の上司の所長が最悪で本当に馬鹿でした。
急成長した会社だったので中途採用で入ってきたそこそこの年齢の
おっさんだったのですがなんせ業務内容が全く理解できていないのです。
入社一年目の僕の方が良くわかっていたぐらいでした。
そんなおっさんが指示を出すもんだから社内はぐちゃぐちゃでした。
あまりの馬鹿さに頭にきてしまい1年近く我慢したのですがついにキレてしまい
お前が辞めるかおれが辞めるかじゃボケぇ~と怒鳴ってしまい僕が辞めてしまいました。(笑

このあたりから僕の本格的なしくじり人生が始まるのでした。
続けていれば一応は株式も公開しているようなのでそれなりにお金になっていたのかも
知れませんね。
でもペットの仕事の道を選んでしまい抜けれない泥沼にはまってゆくわけです。

アフリカの社長からは元々誘われていましたのですんなり働きだしたんですが
この当時は未曽有の好景気で商品を確保するのが一番の仕事でしゃかりきになって
輸入していました。
ドイツ、オランダ、アメリカ、香港、シンガポール、ロンドンといろんなところに買い付けに
行ってました。
当時はおそらくですが最先端のショップだったと思いますよ。
流行は自分たちで作っていくって感じでしたね。
給料も売り上げに対してのインセンティブがあったので年齢からするとかなり高額の給料を
もらっていました。
なので当時買った車がスカイラインのGT-Rです。23歳の時ですね。
それをしくじったのが2000km走ったぐらいで電柱に串刺しに。
修理に半年かかりました。
もう時効だから言いますが酒気帯びでしたね。
お酒で何回失敗しているのでしょうか僕は。今書いていてずいぶん前から
お酒で失敗してるんだな~としみじみ思いました。
学生の時の彼女ともこの頃別れてしまいましたね。
今、思えばそのまま結婚していれば全然違った生活があったのかもしれないのにね。
当時は本当に猛烈に働いていましたので大阪の本店、埼玉の支店、海外と飛び回っていました。
さらに時代は少し進みアジアアロワナの輸入がインドネシアからOKになり
世の中はアロワナブームでした。
この辺りから本格的に坂道を転げるようにしくじっていくのでした。

ADAの社長が水戸の松原くんと組んでややこしい事をしておかしくなったのもこの頃でした。(笑
そのおかげで水物に専念したのであの人もあれだけ飛躍したのですが。
そういう意味ではしくじりではなかったのかも知れませんね。

しくじり先生を見てⅥ

2015/11/11 Wed

パンタナルには国内線でクヤバまで行ってそこからセスナで
パンタナルのフィッシィングロッジまで2時間のフライトでした。

パンタナルはなんせ水が透明で綺麗で良かったですね。
メータークラスのドラードも釣ったし満足でした。
なんせね星がきれいなんですよ。
今でも3000m級の山に登ったら天の川が見れますが
アマゾンでは星が見えすぎてなんのこっちゃ判らない状態なのです。
ホタルも大きくてきれいでした。

今はパンタナル大湿原は世界遺産になっていて色々細かい制限があるみたい
ですね。
まだまだしくじりは出ませんね。
面白くないですね。
この時、帰国するのにお腹にワニ(コビトワニ)をテープで巻いて持って帰った人がいました。(笑

しくじりではないのですがゼブラキャットを捕まえに行くのにチオトニオの滝ってところに
行ったんですよ。これが今回の最大のしくじりで川幅500mぐらいだったのですが
小さな船外機のボートで対岸に渡ったのですよ。
手前には電気があって冷えたコーラがあったのですが対岸には電気が無くて
清涼飲料水はナッシング。事もあろうかそこに行くのに水を忘れたんですよ。
仕方ないので現地のインディオ系の住民にならって水を飲んでたらレッドカードが。
上下ピーピーでいわゆる赤痢ってやつでしょうか。
正直救急車呼んでくれよ!と思っていました。
肛門がむず痒くて岩にこすり付ける感じでしたね。
それが初日の晩。
その川はカンディルが生息している河でだれも川に入ろうとしないのですよ。
次に迎えにくるのは1週間後。それまで死んでましたよ。
下痢と嘔吐で脱水状態。仕方なく河の水を飲むが新たに汚染された水なので
症状が改善されない。しかもマラリアを運ぶハマラダ蚊の生息地なのでマラニアにも
かかる。本当に死んでもおかしくなかったです。
まあなんとなく御巣鷹山の一件があったので死ぬ予感っていうのはなかったのですが。

この時の旅行では大した発見もなかったですね。

それでも残り上流部2000kmをいつか制覇してみたいですね。

明日から帰国編。チャラチャラ世間はバブルが始まります。

しくじり先生を見て Ⅴ

2015/11/09 Mon

アマゾンから帰って来てちょうど1週間後だったかな。
運命を左右する出来事がありました。

まあ、正確にはあまり関係なかったのですが・・・。

そうJAL125便が御巣鷹山に墜落したんです。
あれって当初の予定だったら乗ってたのかも・・・。
夏休みの初日から行く予定のままだったらちょうどその便にというか
帰国して羽田→伊丹はまさに123便でしたからね。

まあ、その当時は悪運が強いのでちょっとやそっとでは死なないと
勘違いしていました。

夏休みが明けて二学期が始まり、アマゾンに一人で行ってたと言っても同級生は誰一人として
信じませんでしたよ。
まだ今と違って円安で海外旅行が一般的ではなかったですね。

ええ、ここから受験勉強すればまた僕の人生も変わっていたのかも
知れませんが全く勉強をする気が起こらず遊びほうけていました。
アフリカの社長がまた2年後に今度は一緒に行こうと言い出したので
それに同調してまたバイト三昧な生活に戻るのでした。

この辺りから徐々にしくじりだすのでした。

当時は年齢を誤魔化して深夜までバイトしてましたので月給が15万ぐらいありました。
10万は旅行貯金で5万は小遣いです。
毎日、学校の行きしなと下校の時に喫茶店に入ってタバコを吸っていました。
真面目に学校の中では吸わなかったのです。
高3になっても生活は変わりません。
相変わらずバイト漬けです。
受験もするつもりがなかったので4月生まれだったので早々に車の運転免許を
取りに教習場通いでした。
二学期からは車で登校したりしてやりたい放題でしたね。

高校も無時に卒業してとりあえず医療系の専門学校に進んでいました。
しかし、相変わらずバイト三昧です。
兄貴の乗ってたワーゲンゴルフを譲ってもらいそのローンを払うのにバイトに
追われていたのです。
まあ、でもアマゾン旅行の目的があったのでこの時点ではまだチャラチャラはしてませんでした。
19歳の夏にアフリカの社長、ボク、常連の中島くんの3人でアマゾンへ。

3人だったのと2年前に比べ円高で1$=130円まで上がっていたので滞在中に使える経費が
各段にアップしていたのでセスナをチャーターして移動したりヘリに乗ったりと贅沢な遊びが
出来ました。
少し大きな船もチャーターして採集に行きましたね。
この時のメインは黄金の魚ドラードフィッシュを釣る事と当時センセーショナルだったゼブラキャットの
捕獲がメインでした。

しくじり先生を見て Ⅳ

2015/11/08 Sun

続いてアマゾン河の中流域最大の街マナウスに移動。
今でいう経済特区の街で関税がフリーだったのかな。
そのおかげで外資の企業がたくさん入っていましたね。

マナウスに来た目的はブラックピラニアの捕獲でした。
マナウスの少し上流で黒いネグロ河とアマゾン本流が合流しています。
その黒いネグロ河を遡っていくわけです。

まあ、ピラニア釣りは比較的簡単なので短時間でけっこう釣れましたね。
持って帰る分も十分捕れたのでオーケーですね。その中で良く見ると
当時では幻だったエロンガータピラニアが1匹混じっていました。

ネグロ河は水質が貧栄養状態なので他に捕れる魚の種類が少ないのです。
これ以外だとブリコンぐらいだったかな。後はナマズが少々ぐらい。

本流の方へ移動するとレッドテールキャットやタイガーショベルなどおなじみの魚がよく釣れました。
でもね釣れるサイズがすごく大きいので日本には持って帰れないので
主に食べました。
あんまり面白い話がないですね。

マナウスにはアマゾン最大のシッパーであるターキーアクアリウムがあります。
故シュワルツィ博士の作った熱帯魚の輸出会社ですね。
そこで日本に持って帰る魚の買い付けです。
なんせ安い。(笑
ブラックアロワナが1匹50円だったかな。カージナルテトラなんて5円。
1000円に達する魚を探す方が難しいんですよ。
そこでたっぷり買い付けてベレンのグランデ小川さんの温室に送ってもらうんです。
なんだかんだで大きな発泡の箱で20箱分ぐらい。

そんなこんなでマナウスでも10日間ぐらいのジャングル遊びを満喫して再びベレンへ。

ベレンに着いてからはドラードキャットの採集に行きました。
刺し網で大きな個体はいくらでもかかるのですが持って帰れるようなお手頃サイズがかからないんです。
それにかかってすぐに引き上げないとピラニアとか他の肉食魚の餌食になってズタボロになってしまって
なかなかこれが難しい。
1週間の滞在期間の間でなんとか20cmの幼魚を1匹だけ確保しました。

ベレンにも輸出業者があってそこは日系の方の経営でした。
本当はそこで大発見があったはずなのですがしくじってしまいました。
まだ日本には紹介されていなかったスタージョンキャットというナマズが5匹ぐらい泳いでいたのです。
それを見たのははっきり覚えているのですが単なるショベルノーズキャットだと思い込み買わなかったのですよ。
だって見た事も聞いた事もない魚だったので認識できませんよ。
自分で釣り上げたりしたのなら見た事ない魚なので興奮もしますがタイルのたたきの池に入っていて
上から見てショベルノーズと同じ体型なら見過ごしてしまいます。なんとなく髭やヒレ先が長いな~って
感じでしたよ。
帰国後2週間ぐらいしてそれが日本初入荷で入ってきて価格が25万でした。
あの時にどうやらグランデ小川さんは気づいていたようでした。

まあ、もう30年も前の話なので時効ということでぶっちゃけますが当時はコンプライアンスなんて
感覚がなかったのでお金になるような物はなんでも持って帰っていました。
薬には手を染めませんでしたが色んな亀とかいろんなトカゲとかカエルとか・・・。

そんなこんなで日本に帰る日がやってきました。
持って帰る箱数は25箱。(笑
これを輸出ではなくスーツケースと同様に預けるわけです。
今の中国人の爆買い状態みたいなもんです。
オーバーチャージもわずかな金額でオーケーです。
乗客が少なかったらなんでもありだったのです。

ベレンからリオに飛んでリオから帰国だったのですが
リオの空港ホテルに部屋を取ってもらい酸素ボンベを用意してもらい
出発間際にもう一度水替えと酸素チャージをやり直しました。
そのおかげでほぼ100%生きて日本に着きましたよ。

成田には松坂さんが迎えに来てくれていました。
一旦、松坂さんの温室に行って魚を分けて羽田に送ってもらい大阪に
戻ったわけです。
アフリカで持って帰ってきた魚を降ろしクタクタで帰宅。
さすがに疲れましたね。
アマゾンで採集した魚のうちいくらかは自分で飼育。それ以外は全て売却。
50万ぐらいになったのかな。
120万ぐらい使って50万回収出来たからまあ御の字ですね。

でもね、一旦現地での原価を知ってしまうともう日本で買い物が出来なくなってしまうんですよ。
ここからですね、海外の買い付け癖が付いてしまったのは・・・。

次回からチャラチャラ学生編です。
まだ大きなしくじりは出てきません。

しくじり先生を見て Ⅲ

2015/11/08 Sun

アマゾン編ですね。
17歳で初めての海外旅行が一人でのアマゾン。(笑
時代はまだアメリカ大統領がレーガンで日本の首相が中曽根さんでした。
1$が250円していました。それが翌年には1$=150円まで円高が進むとは
予想だに出来ませんでしたよ。

そんな時代背景でアマゾンの情報はというと開高健のオーパと松阪実の
アクアライフの記事ぐらいでしょうか。
今みたいにネットで検索してっていうわけにはいかずアナログな情報しかありません。
まあ、直前にアフリカの社長が行ってたわけですからそんなに困らなかったですよ。

ベレンに到着した翌日、グランデ小川さんは用事があったみたいで僕は完全休養日。
なんせ強烈な時差ボケ(12時間)を直さないといけません。
高校2年生でしたがビールを片手に煙草を吸いながら町をブラブラ。
一番興味があったのは市場の鮮魚売り場ですね。
当然ですが海の魚は一切なしで全てアマゾン河の魚が並んでいます。
ですので自分の採集に行きたい魚がその近辺にいるのかすぐに判るわけですよ。

食用ですので大型のナマズ類が多かったですね。ピライーバとかドラードキャット、タイガーショベルみたいな。
ピラルクーが見たかったのですが残念ながら河口の街ベレンでは捕獲されないとか。
ピライーバはこの当時まだ日本未入荷でドラードキャットが初入荷で50万ぐらいしてたかな。
食用な大きな個体は刺し網で捕れるのですが生きたまま発送出来るような数十センチのサイズの
個体が捕れるポイントが開発されていなかったわけです。

ディナーはオオアタマヨコクビガメでした。亀好きのマニアの人に怒られそうですがエキスパンサーと
呼ばれる希少な水カメです。
これがまた美味で精がつくとか・・・。17歳で精は必要ないと思うのですが。
アナコンダの輪切りのステーキも旨かったです。
ワニは足よりも尻尾の付け根の肉が柔らかくてジューシーでしたね。
お腹が膨らむと夜の街へレッツゴーです。
あくまでも17歳でしたけどね。
クラブでは日本から持って行ったお土産、電子ライターを配ってモテモテでした。
それと日本のたばこには皆、興味津々であっという間に無くなってしまいましたね。
当然ですがポルトガル語なんて喋れませんからね。
身振り手振りで口説いてホテルに誘うわけですよ。あくまでも17歳の主観です。
そんな感じで町では普通に買い物もできますし飲み屋さんもあります。
ホテルも。しかし、ちょっとクルマを走らせ1時間も行くといきなり町が途切れ
ジャングルです。ジャングルの中にズドンと1本道が通っている感じで
それも雨季には沈没するらしいですが。

翌日、港から船に乗るために桟橋へ。持ち時間があったのでちょっと釣りをしてみる事に。
するとピラムターバというナマズが入れ食い。(笑
当時、日本で10万円ぐらいで売られていましたよ。
日本に帰ってもいくらでも捕れるのは内緒にしておいてね!って頼まれました。
当時のブラジルのマクドナルドのフィレオフィッシュの原料に使われていたぐらい
メジャーなナマズだったようです。

そんな感じでベレンから船に乗って対岸(50km)ぐらいかな。(笑
三角州というか島というか地名は忘れてしまいましたがサンタクルスやったっけ?
なんせそこでは珍カメのマタマタが生息してるとかでそれを捕まえようという事でした。
おれ、魚の方が興味あるんやけど・・・。
カヌーに乗って竹竿で底を刺して甲羅に当たったら現地の漁師が飛び込んで捕獲して
上がってくるという段取りでした。
30分でぐらいで2匹捕まえた時点で飽きました。だってする事ないんですもん。
鵜飼のアユ捕りを見ているようなもんです。
せっかくなんで昼ごはんは漁師たちと一緒にマタマタの丸焼きを。
焚火に豪快にマタマタをひっくり返して焼くだけ。
血抜きも内臓も出していないのでゲロまずでしたよ。
ほとんど生焼けですし寄生虫も怖かったです。
午後からは小さな熱帯魚を救う網で落ち葉の降り積もった小さな小川でアピスト採取。
水中メガネとシュノーケルをつけて泥が舞わないようにそぉ~っと落ち葉をめくるとかなりの
確率でアピストがいてるんですよ。
ボレリーとかアガシジィとか捕れましたね。
夢中になって掬っていると「そんな事がしたかったんだ」って。
もっと豪快にアマゾンらしい珍獣とか怪魚が見たいのかと思っていたって勘違いしてたみたいでした。
そんな小魚だったらベレンの近郊でいくらでも捕れるよ!って。
地味に小型カラシンとかがきれいで日本で売られている個体の体色と野生の個体では
天と地の差があるのですよ。
そんな事に感動するのが大切なわけですね。
どうっやたら日本で飼育していてそれだけの発色をさせれるのかがテクニックになっていくわけです。
そこから数日は小さな川や池でコリドラス、カラシン、アピスト捕りして遊びました。
釣りをしてて大きなペーシュカショーロを釣り上げてびっくらしましたね。

しくじり先生を見て Ⅱ

2015/11/07 Sat

そう高校2年生の夏の出来事でした。

パスポートも取得し準備は万端?だったのですがアフリカのオーナーが6月にアマゾンに
熱帯魚採集旅行に出かけるという暴挙に。
羨ましいじゃないですか。
夢のアマゾンですよ。
帰国後、話を聞いているといよいよ羨ましいぞ。
魚は夢のように沢山いてるし女性も綺麗だし食べ物も旨いし。
そこで言われたのが「アメリカなら卒業後でも行けるがアマゾンは今しかないぞ!」と
囁かれ悪魔の誘いに負けてしまったのでした。
急きょアメリカからアマゾンへ行き先を変更です。
ビザも取らないといけないし本当にバタバタでした。
当初は高校が夏休みに入ってから出発してお盆ぐらいに帰って来る予定だったのですが
色んな大人の事情がからみ1週間早く一学期の期末試験終了直後の翌日に出発する事に。
まあ、これが後々僕の運命を左右する大きな出来事になったわけですが。

本当に時間がなくて用意が出来なくて今、考えると初めての海外旅行が一人で
アマゾンで良かったのか俺?
判らない事だらけで本当にまいりましたよ。

日本円で約100万を握りしめて成田から一路ロスへ、ロスでトランジットがあって2~3時間の休憩を挟んで
リオデジャネイロへ。
そこからまた国内線に乗り換えだったのですが一人でリオの空港で10時間待ち。
空港内といえど置き引きにあうので居眠りもできず時差ボケと戦いながらようやく機内へ。
大阪を出て48時間後無事に最初の目的地アマゾンの河口の街ベレンに到着。
そこでグランデ小川さんに迎えに来てもらう手筈だったのですが23時に着いたのですがそれっぽい
人はいませんでした。
一人寂しく到着ロビーで待っていたのですがその後の到着便がなかったのかロビーの照明が
落とされ本当に心細い夜を過ごしました。
一応、日→ポルトガル語の旅行用の本は持って行ってましたので
掃除のおばさんに公衆電話を使いたいと身振り手振りでジェスチャーし
公衆電話用のコインをゲットしたのでした。
そうブラジルでは公衆電話専用のコインを持っていないと電話をかけれないのでした。
もう深夜だったので全ての売店がクローズでコインを手に入れる事が出来なかったのでした。
なんとかコインを手に入れグランデ小川さんの自宅に電話。
深夜1時過ぎ。でも僕は丸まんま時差が12時間だったので元気だったのですよ。
すると小川さん本人が電話に出てくれて、開口一番「あれ、来週じゃなかったっけ?」って。
元のスケジュールで聞いていたみたいで予定が前倒しになったのを聞いてなかったみたいでした。
まあ、なんとか連絡もつき1時間後迎えに来てもらえ無時に小川邸に泊めてもらいました。

掃除のおばさんには空港を出るときにチップを千円分ぐらい渡してお礼を言って別れました。

次回から怒涛のアマゾン探検編が始まります。

今の年齢の話までくるのに何話ぐらいかかるんやろ?(笑

本格的にしくじり出すのはもう少し先です。

しくじり先生を見て Ⅰ

2015/11/06 Fri

バラエティ番組で「しくじり先生」を見て俺も反省しないといけないな~と
思いましたよ。
けっこう波乱万丈な人生を歩んで来た気がします。

昭和の和やかな時期に育ったので警察にご厄介になる事は少なかったですが
今の平成のご時世でもし少年期を過ごしていたら少年院ぐらいには入れられていた
かもしれませんね。

そんな幼少期の思い出から書き綴ってみます。

昭和43年に生まれました。
大阪市の一番端っこの三国って街です。
小さな町工場の三男坊です。
オイルショック前だったので比較的裕福な状態だったようです。
記憶にはないのですが。
両親共に家業が忙しかったようでおばあちゃんに育てられたような記憶が
あります。
幼稚園に入るまではおばあちゃんの生まれ故郷の島根県の江津で過ごす事が
多かったですね。
家の前に山陰本線の線路があって蒸気機関車が走っていたのを薄っすらですが覚えています。
まあ、この頃までは反省するような馬鹿な事はしてなかったはずです。

幼稚園に入った頃、近所の悪がき達と酒屋の倉庫に忍び込みジュースを飲んでいたら
店の人に捕まって親を呼び出されこっぴどく怒られたそうです。
まあ、窃盗ですもんね。
この頃から生き物が好きで近所の爆弾池とかでザリガニや食用ガエルを捕まえて
遊んでいました。
トカゲやカマキリなんかも手あたり次第飼育してました。
親戚が茨木の農家をやっていたので夏場は泊まり込みで
カブト虫やセミを捕まえに行ってました。
この頃は普通にホタルも飛んでいましたよ。

おそらくですがこの頃に第一次熱帯魚ブームみたいなものがあって
うちの家でもステンレスのフレームの水槽でグッピーを飼育していました。
この頃から熱帯魚の飼育熱が高まっていたようです。
小学校にあがると小学館の熱帯魚図鑑や生き物図鑑に夢中で
いつかアロワナやピラルクーを飼うんだ!と誓っていました。
同級生の父親で筋金入りの熱帯魚マニアの方がいてて良くお邪魔して
熱帯魚を眺めていました。
当時では珍しく180cm水槽でポリプのオルナティやピンカラなんかが群泳してましたね。
僕は僕で当時の小遣いではとてもじゃないけど熱帯魚を買えないので
父親の鉄工所を時給150円ぐらいで手伝って月に1万円ぐらい稼いで
熱帯魚につぎ込んでいました。
40年前の方が今よりも高かったんじゃないでしょうか。
ブラックアロワナを1匹8000円で購入した記憶があります。
そんな感じで勉強もせず熱帯魚の事ばかり考えて過ごした小学生時代でした。

中学にあがった時に熱帯魚マニアの仲間というか師匠というか
凄い人がいてて開業するんだといって開業したの大阪で有名な「アフリカ」さんです。
ある意味、ここから僕のしくじり人生が始まったのかも知れません。
そんな感じで当時のアフリカさんも最初は泣かず飛ばずで苦しく奥さんの
犬猫のトリミングに支えられ飛躍の時を待ってる状態でした。
そんな僕はというと適当にアフリカさんでお手伝いをしてバイト代をいただき
欲しい熱帯魚や器具は卸値で購入という特典付きで優雅にアクアライフを過ごして
いました。
適度に小遣いもあったので少し不良の道を歩中二の頃にはいっぱしのヤンキーになって
いましたよ。でも熱帯魚は飼ってるという可愛らしさ。
ちょうどこの頃、競艇のトップ選手の松井選手と知り合ったわけです。
アフリカさんの近所の鮮魚店の息子さんでお母さんが犬を飼っていたので散髪に
連れて来てたのがきっかけでしたね。
その頃から仲良く熱帯魚談議に花を咲かせていました。
その当時はまさかトッププロになるなんてこれっぽっちも考えていませんでした。
熱帯魚はアフリカンシクリッドが大ブームで毎月毎月新着の魚が沢山入ってきてて
凄い賑わいでしたね。
今でいう三和のポリプの旧タイプのエンドリが入っていたのがまさにこの頃だったので
それから35年も経っていますので今頃旧タイプのエンドリなんて生き残って店頭に並んでいるはずが
ありません。
日本中探せばまだ飼育しているマニアさんはいてるかもしれませんがとてもじゃないけど
繁殖に使える年齢じゃないですね。
同時にまだこの頃は本物のシャムタイガー(ダトニオ)が普通に入荷していました。
小さな個体で2000円くらいだった記憶がありますね。
前述のエンドリの三和が大ブームで関東の有名なお店の人たちも入荷の度に
大阪にやってきてましたね。
しかし、その繁栄も長くは続かず何があったのか今では謎ですが
突如して三和の社長が姿を消して会社は消滅してしまうのでした。
一説では熱帯魚の輸入はおまけで覚せい剤や拳銃の密輸がメインで
黒い組織に消されたんじゃないかとの噂でしたね。
まあ、そんな感じで世の中からエンドリが姿を消した瞬間でした。

そこで熱帯魚ブームが途絶えてしまうのかと思ったのですが凄かったのは
ここから第一次アジアアロワナブームが起こった事でした。
僕は中学2年生になっていました。
ある日、アフリカの社長が興奮して凄いアロワナがおるんや!とあんなん見た事がない!と。
近所の木材輸入会社の事務所にそのアロワナはいてました。
しばらくすると店頭の水槽に「幻のオレンジアロワナ」と書かれた札と共に
セパレーターで仕切られていましたが今でいう紅龍が二匹泳いでいました。
そこからですわ、第一次アロワナブームが起こったのは。
当時初入荷の時で記憶にあるのが卸値が8万ぐらいだったような・・・。
もちろん当時もサイテスⅠ類なのでバリバリの密輸品でしたよ。
その木材輸入業者のツレでN久保っていうおっさんが運んでいました。
その西〇〇っておっさんはこの後あちこちに卸して荒稼ぎをしてたのですが
千葉の松〇〇さんの所に運んだところで現行犯逮捕されサイテスの違反で逮捕された
人間の第一号という名誉ある勲章をいただき今でもタイで密輸の采配をしてて
現役で密輸業に精をだしているそうです。
まあ、ここから数年4~5年ぐらいかなアロワナの大ブームでとにかくぼろ儲けしたようです。
余りにも堂々と密輸品を売るもんだから一度だけ警察に連れて行かれたようでした。
当時、テレフォン情報といって留守電にメッセージを吹き込んで入荷の案内を聞ける
サービスがあってそれにも堂々とアロワナの入荷情報を流していたので言い逃れできなかった
ようです。(笑

そんな黄金期を過ごし僕は遊びまくっていて中学三年生の時はほとんど授業に
出ることが無かったです。
とりあえず学校には行くのですがツレの家に行って麻雀して昼からパチンコ、夜は居酒屋みたいな
流れで遊びまくっていました。
塾だけは真面目?に行ってました。
高校受験も無事に乗り切り普通の学校に行ってたのですがなんせ普通過ぎてツマラナイ。
中学時代につるんでいたツレなんて誰一人高校に行ってませんから。
まあ、この編から本格的にしくじりだすのですが。
なんせ勉強は一切しない。来る日も来る日もバイト漬け。
365日、夜遅くまでバイトしてましたね。
今、思えばこの頃にもう少し勉強するかクラブ活動するかしてれば良かったですね。
当時は金儲けしか考えていませんでした。
一応、高校2年生でアメリカに語学留学という目標があったので本当に目標額を目指して
来る日も来る日もバイトばかりでした。
そんなんで2年生の夏休み前には目標の100万は貯金出来ていましたよ。
そのままアメリカに行ってれば良いもののここで人生の大きなターニングポイントが・・・。

続きはまた後日、

山の幸のピザ

2015/11/02 Mon

山の恵みを存分に生かしたピザを焼こうと
随意研究中。
そこでたどり着いた結論はその時手に入る野生のキノコ。
それに蜂の子をプラス。
そしてチーズたっぷり。
かなり旨いんじゃないかと思っております。

キノコはなんとかなりそうなのですが蜂の子は11月中旬だと
巣を回収してももう成虫になりきってしまっている可能性が高いので
本日着で送ってもらいました。
巣ごと。(笑
hati4.jpg

もちろん滋養強壮に抜群のオオスズメバチさんです。
ダンボールはこに入ってやって来ましたよ。
箱を開けて緩衝材の新聞紙をのけるといきなりオオスズメバチさんの新成虫が20匹ほど
こんにちわって。(笑
さすがにたまげてギャー!って声を出して蓋を閉めましたよ。
心の準備が出来ていませんでした。
一応念のために飛ばれても大丈夫なように掃除機をスタンッバって
再度開封の儀を。
hati1.jpg
hati2.jpg

前もって新成虫は2日は飛ばないと聞いていたのでピンセットで摘まんで1匹ずつ
ビニール袋へ。
それでも奴らの牙を見てると怖いです。
hati3.jpg

大抵の物は扱ってきましたがオオスズメバチが一番怖いかも。
飛ばないが刺すそうなので服に纏わりつかないように注意が必要です。
ああ、今、まだ会社なので写真は明日でも。
かなりグロイですよ。(笑

全て成虫を回収してメインの幼虫の回収です。
ピンセットで頭を摘まんで1匹1匹回収です。
hati5.jpg

最初は気持ち悪かったのですが慣れてくるとカブト虫の幼虫と変わらないやと
思い出し普通に触れるようになりましたよ。
全部で1.5kg入っていました。
蛹が一番グロかったですね。
特に羽化間近の黒いのが気持ち悪かったです。

さあ、幼虫は1匹ずつ内臓の糞出しです。
お腹を摘まんで押してピンセットで下腹を切り裂き
黒い爪楊枝状の腸を引っ張りだして出来上がりです。
沸騰したお湯に入れると破裂するので80℃くらいで
湯がいて表面のタンパク質を凝固させます。

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